「ほっ」と。キャンペーン

私のNPO LIFE

カテゴリ:メディア論( 10 )




ワタクシ流 子どもとメディア論(10)

 「アートスタート」という事業を毎年行なっている。乳幼児と保護者のための芝居や音楽、生の舞台との“であい”をつくる事業だ。その事業には、地域の保健師、保育士をはじめ、子育て支援に関わる方たちにスタッフとしてご参加頂いている。今年、始めて参加された保育士さんから「ケータイまでも、全て預けて会場へ入るって、あれ、いいですね」と思いがけぬ感想を頂戴した。舞台を只ただ楽しんで欲しい。だから、余計なものはみんな預けよう、というだけの事。中には「ケータイも?」と、不安げに問う人も確かにある。「はい、持っていくのはハンカチ一枚だけでいいよ、ケータイはマナーモードにして荷物の中に入れていってね!」さらりとかわす。だって、そうでしょ、赤ちゃんと一緒に楽しむために来たんでしょう。
 子育て中の人たちにとって、ケータイが片時も手放すことのできないツールになっているのだとしたら、アートスタートのように、しばし手放す機会を意図的につくることは、案外良いことかも知れない。今後、子育て支援の場などで「ケータイお預かり」の取り組みをやってみてはどうだろう。身体から離す、そうした意識を持たないと、誰もがあの小さな情報端末に振り回されてしまいそうで恐ろしい。

ファンタジーボックスVol.15より
[PR]



by hatehate2004 | 2008-01-31 13:56 | メディア論

ワタクシ流 子どもとメディア論(9)

こども未来の通信「ファンタジーボックス」に連載しているメディア論。
今号から、この通信をより多くの方に届けようと、協賛金を募って毎回1000部印刷することになった。それに合わせて、紙面も一新。
今まで好き勝手を書かせてもらっていたけど、文字数を限定し、短く読みやすいものを数点掲載することにした。
ということで、ちょっと書き足りない言い足りないところは、ブログで補足させてもらいます。
以下、ファンタジーボックスに掲載した原稿。
          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 私たちが「子どもとメディア」に関する取り組みをはじめて6年。子育て中の親の意識が確実に変化しつつあるのを実感している。正しい理解の仕方もあれば時に「2、3歳まではテレビを見せちゃいけないんだって」というメディアを悪者にした噂話のような理解のされ方がある。「テレビは見せてません!」と言いつつ、授乳しながらケータイ!?という場面も珍しいことではないからだ。
 「ならば先手を打とうじゃないか」とこれからパパ・ママになる人たちへのメッセージを小さなリーフレット(メディアスタート)にして手渡すことにした。赤ちゃんを迎える前に家庭内のメディアを意識してもらい、メディアとの付き合い方を考えてもらうのが狙い。母子手帳サイズで、妊産婦検診、両親学級などでの活用も可能。県内で今年生まれる子どもの数とほぼ同数準備し、産科をはじめ市町村に順次配布協力依頼をしている。ご協力いただける方はご一報を。

以下、補足ね。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

夜中に、寝ていたはずの子どもが居ない!と思ったら、リビングで一人DVDを見ていた。ホントの話だよ。子どもは2歳児。
子どもは賢い。親のすることをいつも見ている。ケータイの使い方だって、テレビやPCの使い方だって、ちゃんと知ってるよ。
でもね、だからこそ、大人の持ち物、大人しかさわっちゃいけないものなんだって、繰り返し教えなきゃいけないと思うの。子どもにいきなり包丁を持たせる人はないでしょう。まずは、おもちゃのナイフから、そして子どもの成長に合わせ、大人の管理のもとで子供用のナイフを使わせてみるよね。
刃物だって、メディアだって、同じ。使い方を誤ると大変なことになる。
だから、大人の持ち物を容易に子どもに触らせない努力をしないとね。子どもはひとつも悪くない。全てが大人の責任。

子ども・子育てを応援するフリーペーパー情報紙「ファンタジーボックス」2007夏号を購読希望される方は、こども未来ネットワーク事務局までお問い合わせ下さい。
[PR]



by hatehate2004 | 2007-08-11 09:19 | メディア論

ワタクシ流メディア論(8)

 山間部の小さな小学校に「子どもとメディア出前講座」のため出かけた。学校に通う9世帯のほとんどが両親共働きの核家族、元々地元の住人ではなく近隣から転居して来た人たちばかりだという。低学年の児童も含め、保護者と一緒に講座を受けてもらった。
 「自分の部屋にテレビがある人」と問うと、およそ半数が手をあげた。2軒に1軒は子どもにテレビを買い与えているという実態に少々驚く。校長先生は、子どもの生活リズムに力を入れているのだとおっしゃった。そこで私も、夜更かしの原因となるテレビやテレビゲームについて親子で考えるきっかけになるようにと、メディアの「害」を強調して話をすすめる。特に、子ども部屋にテレビ・PCを置くことはやめましょうと伝えた。
 この小学校の子どもたちは、住まいも学校もいっしょの「大きな家族」のよう。ならば「ノーテレビデー」など楽勝!と思いきや、なかなかどうして、そう簡単にはいかないようだ。この小学校の抱える問題とは一体なんだろう。翌日、「子どもとメディア全国フォーラム」に参加した私は、その疑問を解く鍵を見つけるのだが。
 基調講演で正高信男氏(「ケータイを持ったサル」の著者)が繰り返し強調した、人が生きていくために必要な他者の存在、「世間」の必要性を私なりに考えてみる。前日に訪問したあの小学校の子どもたちに、世間は存在するのか。皆が同じ集合住宅に住み、数十メートル先の小学校と住宅を、朝夕行き来する子どもたち。主な遊び場は学校。親や教師以外に、日常的に子どもと関わる様々な人の存在、それこそ地域社会という「世間」が存在しているであろうかと。もちろんあの小学校だけの問題ではない。私の今の暮らしだって同じようなものだ。大人は移動する手段(車)をもっているから、職場や趣味などを通じて好みの世間をつくり、暮らすことができる。けれど、子どもたちはどうだろう。地域の中に家庭や学校以外の人間関係を自ら築く術をもたない。こうした社会構造が、子どもたちを益々、インターネットの架空世界へと導いていくのかも知れない。
 正高氏は講演の中で、日本には稲作で培った「農村共同体」があり、それがベースとなって「世間」を形成していた。人々は、そうした「世間」の中で、生きてきて、現代も、その本能的な部分は生き続けている。だからこそ、IT社会の中で「世間」を形成しようとしているのだ。と述べたが、「世間」のない環境で育つ子どもは一体どうなってしまうのだろう。架空世界の世間にも価値はあるのだろうか。
 ノーテレビ・ノーメディアの取組みだけでは解決できない難問に、どう立ち向かって行けばよいのか。「子どもとメディア」を巡る問題の根の深さは、私の想像をはるかに超えたところにある。
[PR]



by hatehate2004 | 2007-03-06 08:37 | メディア論

ワタクシ流メディア論(7)

 小さな子どもたちは、大人の持っているものに興味を示す。代表的なのが、自動車の鍵、そして携帯電話。「だいじ、だいじ、だからね、ちょうだい!」と母親が言っても、なかなか手放そうとはしない。子どもは大人をよく観察している。そして真似る。鍵を手にすると手当りしだいに鍵穴らしきものに突っ込んでみようとする。携帯電話で、知らぬ間に誰とも分からぬ人と「もしもし・・・」していた、などという話も聞く。携帯電話を耳にあて「はっ!うん、ん〜、ふん・・・」などと、首を振りながら迫真の演技を繰り返す様子に、大人たちは可愛らしさを感じるもの。けれど私は、まだ言葉も発しない赤ちゃんが、あの小さな指で、携帯メールを打つようなしぐさをすることに小さなショックを感じずにはいられない。
 携帯電話は今や私たちの生活に欠くことのできない情報コミュニケーションツールだ。そしてその普及と進歩はめまぐるしい。けれど、私たちはこの便利な道具を生活上の必需品として携帯していながら、実際には使いこなすことはもちろん、恐ろしい「闇」の部分に目を向けることはない。「闇」とは、携帯電話のインターネット機能を通じての犯罪やそこに広がる見えない世界のことである。ちょっとした好奇心で出会い系サイトにアクセスし、犯罪に巻き込まれる小中学生、チェーンメールや誹謗中傷を繰り返し、メール上で傷つけ合う中高生の存在は、決して珍しいことではない。
 携帯電話には又、電磁波の問題も懸念される。頭蓋骨が薄く、未完成の子ども期には、脳への直接的な影響が心配されるため、8歳までの子どもの携帯電話の使用を禁止するという国もある程。まだ、確かなことは誰にも分からない。しかし、どんなものにも「良い面」と「悪い面」が必ず存在するということだけは再認識する必要がある。利便性の影で見落としがちな「悪意の利用法」を生み出すのも、人なのだということを。
 私たち大人は、今、目の前にいる子どもにとって必要なものが何かを常に考えなければならないと思う。乳幼児であれば間違いなく人や自然と関わる機会をより多く与えることだろう。そして絵本や自然の素材でつくられたおもちゃがパートナーとなり、生身の人間の発する声や言葉、歌に囲まれて過すこと以上の幸せはない。実は、残念ながら我が子たちにそういった環境を充分に与えられなかったことを、私は悔やんでいる。子どもに手渡すひとつ一つのものに、もっと責任を持つべきだったと。その延長線上にテレビやテレビゲームや携帯が待ち受けていたのだから。
 さまざまなメディアに囲まれて暮らす時代だからこそ、子どもの周りにあるもの、触れさせるべきものを選ぶ努力が親には求められる。そうして「本物を見る目」を親子で養うことが、メディアを読み解く力(メディア・リテラシー)の獲得につながりはしないかと、私は期待している。
[PR]



by hatehate2004 | 2006-08-24 20:35 | メディア論

ワタクシ流・メディア論(6)

 「幸せな家庭ってどんな感じ?」誰かにそう問いかけられたら、どんな家庭を想像するだろう。テレビのホームドラマに出てくるような仲の良い夫婦に可愛い子ども、一戸建ての庭付きの家に犬など飼っていて、朝はエプロン姿のお母さんが「行ってらっしゃい!」と、夫・子どもを見送る。まさか今時、このような優良家庭をイメージする方はないとしても、映画やドラマの主人公に憧れるのと同じように、理想とする家庭像も案外メディアの影響を受けているもの。アニメ「サザエさん」が今なお根強い人気を保っている背景には、大黒柱の頑固なお父さん、専業主婦のお母さん、というどこか懐かしい家庭のスタイルに共感や憧れを抱く人が多いからではないだろうか。
 男女協同参画の研究をする大学教授が、大学生に理想の家庭像を尋ねたところ、男子学生の多くが、パートナーには家にいて、子どもと家庭を守ってほしいと答えたことを報告していた。女子学生の多くは結婚しても仕事を持ち、働きたいと考えているのに、である。一体彼等はどこからこのような価値観を習得しているのだろうか。
 生き生きと働く女性が、ドラマでは以前から多く取り上げられてきた。ただし、悲劇のヒロインとして人一倍働き、それでも夢を持ち、もちろん家事も育児もこなすのである。いつしか女性は「耐え忍ぶ存在」であり、時に誰かが手を差し伸べたくなる「けなげな存在」という、男性から見た「都合のよい女性像」となって私たちの前に登場し続けた。その結果、理想と現実のギャップに対応しきれない現実が横たわってしまったのではないかと、そんな風に思えてならない。もちろん女性の側にも同じことが言えるのだが。
 このように考えると、メディア情報は私たちが気づかぬうちに、心の奥深くに届き、価値観、人生観にまで影響を及ぼしていることがよく分かる。
 時代とともに価値観も変わるだろう。けれど、どんな時代にも変わらぬものがある。親子の情愛、誰かを大切に思う心、それらはメディアから学ぶのでなく、子どもの近くにいる大人が身をもって伝えていこう。色んな生き方があり、望む幸せのかたちはひとりひとり違っているということを。理想とする家庭像、生き方のモデルはすぐそばに居て、実際に子どもたちがそれを肌で感じられるようにと私は願う。
[PR]



by hatehate2004 | 2006-06-05 21:33 | メディア論

『ワタクシ流・子どもとメディア論』(5)

 「赤子が朝起きる。どこやらから声がする。そう遠くないのに、自分に話しかけているのでもなく、自分の反応を待っているのでもない。その声はとぎれることなく続いている。(中略)自分が目や手を動かさなくても、常に新しい情報はやってきて、自分の感覚器官を満たしてくれる。(中略)そんな毎日の中で赤子は育っていく(中略)。朝、目覚めた子どもは居間に行く。居間ではテレビがついていて、(中略)血を流した人が運ばれる映像が流れる。(中略)人が死んだニュースの前で子どもは卵焼きをおいしそうにほおばった。」
 これは、九州大谷短大の山田真理子先生の著書「子ども・こころ・育ち」(エイデル研究所発行)のはじまりの一文。
 ほんとうに、そうだ。アメリカで起きた同時多発テロのことを思い出す。巨大なビルに突っ込む飛行機を見つめながら、これは本当の事なのか、映画のシーンなのか、その時の私には判断できなかった。あまりにもリアルに映し出される映像に恐怖さえ感じた。実際にアメリカでは子どもたちにテレビを見せない日が続いたそうだ。このように大人でさえも混乱しかねない情報が、私たちの日常には溢れているのだ。そしてそのほとんどが、子どもが知る必要のない情報である。
 また、近ごろのニュースでは、連日頭を下げる大人の姿ばかりを見せられる。子どもは、どんな気持ちで見ているのだろう。「大人って、嘘つきなのかな、また何か悪いことしたんだ。」そんな風に感じているに違いない。子どもの近くに「尊敬できる大人」がいてくれればいいけれど、人を騙し、傷つける手本ばかりを見せられていたのでは「夢」など抱けるはずもない。
 このように考えると、テレビが、幼い子どもたちに安心して触れさせられる状況にないことが分かる。私たち大人は、このことをもっと自覚すべきではなかろうか。
[PR]



by hatehate2004 | 2006-02-03 08:59 | メディア論

ワタクシ流メディア論(4)

〜子どもとメディアの問題は「文化」の問題〜
 8月20・21日、山陰こどものとも社主催の「中・四国こども文化セミナー」に参加した。「子どもとメディアと絵本の関係を考える二日間」に400名を超える参加者が集まっていた。参加者のほとんどは保育関係者、子どもの本に関わる人たちであるが、四名の講師による講演から、夕食後の討論会まで“とことん「子どもとメディア」にこだわる”という二日間は、この問題に取組む私たちを勇気づけ、「子どもとメディア」の問題の広がりを実感させた。
 私も「子どもとメディア」について県内各地でお話をさせてもらっているのだが、「メディア・リテラシー(読み解く力)を習得するためには、メディアにたくさん触れる(見る)必要があるのではないか」とか、「ノーテレビ運動はメディア・リテラシーの向上、メディア教育推進の取り組みと矛盾する」という意見に出会うことがある。確かにメディアとは何かを知る為には内容や構成、発信者の意図を注意深く観察することが求められる。けれど、最終的に判断するための材料や自分なりの基準というものは、自分自身が実際の体験の中で得るしかない。実体験こそがメディア・リテラシ−の土台であり、その体験の時間と機会を奪っている現在のメディア環境に気づくために有効なのがテレビを消す「ノーテレビ運動」なのではなかろうか。
 テレビを消す、という行為が家族の会話を蘇らせ、家庭という小社会を再生させる、予想もできない大いなる力を発揮するということを、実践した人だけが知っている。「子どもとメディアの問題は「文化」の問題なんです」と田澤先生(小児科医)は結ばれた。そして「公害問題」であるとも言われた。
 子どもたちとお芝居を楽しむ活動を続けてきた私たちが何故この問題に取り組むのか、それはまさに「文化」の問題であるからに他ならない。
[PR]



by hatehate2004 | 2005-09-06 21:13 | メディア論

ワタクシ流・子どもとメディア論(3)

 人はどんな時に幸せを感じるのであろうか。美味しいものを食べた時、欲しかった物をついに手に入れた時、好きな音楽に包まれている時・・・。それは心が満たされた状態である。では、テレビを見る、テレビゲームをする、インターネットをする、といった一人で画面に向かう行為はどうだろう、満足感を得られるだろうか。
 美味しいものは誰かと一緒に味わいたい。お芝居や映画、音楽会も気のあう仲間と楽しみたい。そこに分かち合う人がいるから満たされる。そもそも文化とは歓びを(時に哀しみも)分かち合う行為に他ならないのだから。
 先日、ある知人が毎夜ビデオを見続けてしまう(やめようと思うのに又次の作品をレンタルしてしまう)状態に陥った体験を振り返って面白いことを言っていた。「片付けてしまわなければならない事があって、それを分かっていながら先延ばしにする口実として、ビデオを観るという行為を続けていたように思う。今はビデオを観ているんだという言い訳を自分自身にしながら、現実逃避していただけだった」と。そして先延ばしにしていた仕事を済ませてしまうと、ビデオには全く興味が無くなったと教えてくれた。ある意味とても淋しい満足感だったのだろう。依存症という言葉がふと頭に浮かんだ。
 ホームシアターとか言って、お茶など飲みながら少し暗くした部屋でDVDを観る。息子が友人から借りてきたものだ。ひとりで見ようと思えばいつでもその機会はあるはずなのに、私や夫に「いつ観る?」と誘いかける。有難いこと。親にとってはどんなに大きくなっても、子どもと楽しみを共有できるのは幸せなことなのです。
[PR]



by hatehate2004 | 2005-05-20 21:45 | メディア論

メディア論(2)

「テレビを見ながら授乳7割」という新聞記事の見出しを記憶されている方も多いと思う。2002年に福岡のこどもとメディア研究会(現NPO子どもとメディア)が乳幼児健診に合わせて行なったアンケート調査では、授乳中のテレビ視聴は全体の7割あったそうだ。更に、テレビ接触開始時期が早かった乳幼児の中には、視線があわない、指差し行動の遅れなど気になる傾向が見られ、早期接触児はその後、長時間接触へと移行する傾向にあるとも報告している。テレビと育児環境、更には子どもの発達への影響にまで踏み込んだはじめての実態調査は、私たちのテレビ漬け生活に一石を投じた。
 実を言うと、私もテレビを見ながら授乳派だったのである。実際にテレビを見ていたかというと、見ていた時もあろうし、テレビに背を向けていた事もあっただろう。つまり、テレビがついているとかついていないとか、そのような事を生活の中でほとんど意識していなかった。私も、夫も、家族の誰もがテレビの内容(子どもに見せたくないものなど)は気にしても、存在そのものについて考えたり、ましてや赤ちゃんに影響を及ぼすなどとは全く思いもよらなかった。「テレビは空気のような存在」、まさにそうだ。
 今こうして「子どもとメディア」について考えるようになり初めて気づいた。テレビは、赤ちゃんと人とのコミュニケーションを邪魔するということ。そして何より赤ちゃんには必要のないものだということ。科学的な根拠とか、具体的な害を問われると困るのだが、赤ちゃんが育つのにテレビがなければ出来ない事なんてひとつもない。
 テレビ文化の時代を表す話を小児科の先生から聞いた。「子どもが初めて話す言葉が「パンマン」(アンパンマンの意味)なんですよ。あまりに寂しくないですか」と、笑いごとではない。テレビのキャラクターより先に、せめて「パパ」「ママ」と言わせたいと私なら思うけど、あなたはどう思う。
[PR]



by hatehate2004 | 2005-05-13 21:47 | メディア論

メディア論(1)

 大学生になった息子が、小・中学校時代の友人と久しぶりに会い、「あの頃は(小学生時代)ホントに楽しかったなあ。」と、しみじみ話している。今では大人どうしの会話ができるようになり、小学生のころを懐かしんでいる姿に、私は思わずホッとした。
 当時、毎日学校が終わると我が家に集まり、ゲームをしたり、プラモデルやブロックで基地ごっこをしたり、クスクス笑いながらマンガを描いたり、たいてい6〜7人の子どもが集まって遊んでいた。子どもたちの居場所と化していた玄関横の応接間は、もっぱら平日は彼等のお城のようなものだった。ただし、天気の良い日は「外にでて遊びなさ〜い!」と言われ、大騒ぎすると「コラーッ!」と怒鳴り込んで来る恐いおばさんが居たけれど、毎日、毎日、飽きもせず集まっていた彼等。
 あの頃から私はテレビやビデオ、ファミコンといった電子映像メディアを中心とした遊びに嫌悪感を抱いていた。時間制限を強要してみたり、無理矢理外へ追い出すような手段をとったり、あの手この手でメディア接触を回避させようと努力を重ねていた。今にして思えば、子どもたちのことも、メディアのことも理解しておらず、肝心な事に気づいていなかったと思う。悪いのはテレビやテレビゲームの存在ではなく、そんなものでしか遊べない環境をつくり出してきた私たち(大人)自身だと。
 今、子育て中の方たちと「子どもとメディア」について一緒に考えさせてもらう機会を得て、実は息子たちが案外上手く遊んでいたことに気づいた。幼いながらも仲間たちとのルールをつくり、メディア機器を遊ぶ「道具」として使っていたのではないかと。確かに遊びの質を問われれば、実体験に勝るものはない。しかし、極端に偏ることさえなければ、楽しく遊べるツールともなる。
 またゲーム、と目くじらをたてる前に子どもたちが自ら想像力を働かせながら誰にも真似できない遊びを創りだせる、「時間・空間」を保障してやる事が大切なんだとつくづく思う。真の楽しさ、面白さ知っている子どもたちは、メディア文化に溺れることはない。
[PR]



by hatehate2004 | 2005-05-13 21:26 | メディア論

悩めるNPO人の日常
by hatehate2004
プロフィールを見る
画像一覧

2015年6月より、一部カテゴリーのみ再公開します。
子どもとの日々に何かしらお役に立てれば幸いです。

ファン

ブログジャンル

画像一覧